Last Update 2010/3/10
JIVE TALKING 勝手に放談 3/5 放送中
 

Hang’em High
◆某大学教授 阿南東也
 Update 2010/3/2
「やつらを高く吊るせ」でお分かりの方はお分かりでしょうか。
それにしても物騒ですねえ。

ライブリポートです。
基本的に古いアーティストのものが多いですが今回のは一番古いかもしれない。
でも、一番新しいかもしれない。

ブッカー・T・ジョーンズです。

もうキャリアはかれこれ50年、
影響を受けたアーティストは世界中に散らばっているでしょう。

サザン(メンフィス)ソウルの中心だった
スタックス・レーベルのそのまた中心だった人。
素朴だけど力強いオルガン奏者。

バックバンドだったMGsにはギターに
スティーヴ・クロッパーがいたことでも知られている。
スティーヴは映画「ブルース・ブラザース」の音楽を担当し、
自らもブッカーと一緒に冷やかし出演している。

でも、最近ではアウトキャスト“Hey Ya!”の
独自の解釈でカバーを発表しているし、
2007年にはグラミーの生涯功労賞(いわゆる殿堂入り)を、
そしてこの間の2010年のグラミーでは
新譜Potato Hallで最優秀R&Bインストロメンタルアルバム賞を受賞し、
今なお精力的に活動中。

その彼のライブ、例によってセットリストを強請りましたが、




これはセットリストというよりいつでも演奏できる準備万端曲リストといった感じで、
順番、選曲とも全く違うものでした。

バックが初めに出てきて“Hey Ya!”のフレーズを演り、
それに乗ってブッカー登場。

小さなライブステージ、ブッカーは向かって左端の木製オルガンに腰を据えます。

上のリストの一曲目ではなく

1“She Breaks”
2 “Warped Sister”
3“Green Onions”の順で始まりました。

GreenはMGsの代表曲の一つ。
彼のオルガンのスタイルは変わっていません。
ボロく見えるオルガンで、多少の和音を交えたシングルノートを淡々と奏でます。
インストで、なおかつ彼みたいに独特のスタイルを持っている人の曲は
説明しにくいですね。とにかく皆さん一度は耳にしたことある曲でしょうけれどね。

ここでライブ主催会場からのサプライズ、
今回のグラミー受賞を祝して彼の似顔絵が
クリームで模られたケーキが披露されました。
間近で見られた小生も含めてオーディエンスは大笑い、本人は照れ笑い。

ここで彼はオルガンから立ち上がり
ステージ中央に移動しアコースティックギターを手にしました。
ヒットしたのはオルガンインストばかりですが、
彼はギターもやるし、歌もうまいんです。

4曲目は”Born under a Bad Sign”。
スタックスの代表的な男性シンガーの一人、アルバート・キングがオリジナル。
クラプトンも大好きでクリームのカバーでもお馴染みかもしれません。
作詞作曲はブッカーで、アルバートのバックもMGsがつとめました。

リタ・クーリッジも無名時代に
ブッカーのプロディースの下でカバーしていて、ライブでも必ず取り上げます。

そのリタが同時期、バックコーラスで参加していた
Stephen Stills “Love the One You’re with”。
「愛する娘が遠くに行っちゃったなら、隣にいる娘とやっちゃいな」という、
ヒッピー文化賛歌みたいな内容でも有名ですが、
イントロと間奏ではいるかっこいいオルガンソロでも知られている。
このオルガンを弾いていたのもブッカーなんですね。
そういう西海岸系の人たちからもリスペクトを受けていますし、
他にもいろいろなセッションに参加しています。

5曲目”Ain’t No Sunshine”。
故ビル・ウィザーズの71年のヒット曲、書いたのはビルですが、
アルバム全体をプロデュースしていたのがブッカーで、バックはMGsでした。
これもグラミーの最優秀R&B楽曲賞を受賞している。
”I know, I know…”と20回くらい繰り返すことで、
同じフレーズが繰り返される最多回数ヒット曲、という珍記録も持っています。
もう10年以上前になりますか、
ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラントの「ノッティングヒルの恋人」でも、
大スターのジュリアに会えないヒューが雨降る夜道をとぼとぼと歩く場面で
効果的に使われていました。

6曲目”Jamaica Song”はブッカー自身のギター、
ヴォーカル曲として最も知られているもの。

7曲目”Take Me to the River”。
あのトーキングヘッズのデビュー曲としてつとに有名ですが、
オリジナルはアル・グリーン
トーキングヘッズのデビューのときは、トーキングヘッズがアルの曲をカバーし、
アルのアルバムにトーキングヘッズが曲を提供するという
バーターをやったことで話題になりました。
この曲はブッカーとは直接の関係はないようです。
アルもメンフィスを中心に活動していましたが、
スタックスではなく、もう一つの流れを作っていたハイ・レーベルにいました。
まあメンフィスソウル繋がりということで。

8曲目、”Dock of the Bay”。
出ました。
オーティス・レディングの大ヒット。
これはオーティスとスティーヴ・クロッパーの共作曲です。
曲終わりはあの有名な口笛でオーディエンス全員参加。

ここでまたオルガンに戻り、例のグラミー受賞アルバムの表題曲
Potato Hallが始まりました。
やっぱりスタイルは変わっていない。
彼のヒット曲の一つに”My Sweet Potato”というのがあり、
それへの自らのアンサーソングといった感じです。
3曲目の”Green Onions”には”Mo’ Onions”という曲があり、
やはり南部の農作物への拘りがあるのでしょうか。
Potatoには恋人の意味もありますけどね。

ここから終わりまで
11 “Soul Limbo”
12 ”Hip Hug Her”
13 “Hang’em High”
14 “Time is Tight”と怒涛のごとく彼の代表曲が続きました。

12は萩原健太さんがNHK−FMで長く続けた夜、
夕方のオールディーズ番組のしゃべりのバックに使っていた曲。

13 「やつらを高く吊るせ」とは
同名のクリント・イーストウッド主演の西部劇のテーマ、
マイナーコードが日本人好みでかっこいい。
絶対聴いたことありますよ。「あ、あれだ!」って。

いったんブッカーだけ引っ込みましたがバックは引っ込まず、ブッカーは再登場。
オルガンではなく再びアコギを持ってステージ中央に来ます。

アンコールは”Hold On I’m Coming”でした。
Sam & Daveのあの曲。
これもスタックスから出ていたレコードでした。
曲を書いたアイザック・ヘイズもスタックス出身。バックもMGsでした。

「この曲は『キヨシロ』に捧げる」と言って、
曲の途中でも何度も「キヨシロ、キヨシロ」と叫んでいました。
筑紫さんを追うように癌で逝ってしまった忌野清志郎、
このサム&ディヴ、オーティス・レディング、
そしてブッカーらスタックスのサザンソウルをこよなく愛していて、
ブッカーとも親交があったようです。
自分をリスペクトしてくれた彼に哀悼をこめて。

ちなみに小生、忌野さんと誕生日が同じです。
他にマーヴィン・ゲイ、レオン・ラッセルの誕生日でもあります。
何か共通点はあるかな?

終了後のサイン会、お疲れ、汗を拭き拭きながらもニコニコして応じてくれました。
気のいいお爺ちゃんって感じ。
あれ?克也さんよりもちょっとだけだけど若い。意外だなあ。

p.s. ベストヒットのスタッフの皆さん、
ジェームス・イングラムはクィンシー・ジョーンズの『愛のコリーダ』
(原題The Dude)アルバムの中の”Just Once”,
“ One−Hundred Ways”他でリードヴォーカルをとっていますが
表題曲「愛のコリーダ」には直接関わっていません。
まあ、そんなことは百も承知でバックに流していたのかな。





  投稿する
HAWAII CALLS
K.C KIUCHI
 Update 2010/3/1
何かおかしい

ハワイに住み、12年目に突入した。
10年住むと、今年は暑いなーとか異常に寒いとか、
雨が多いとか環境の変化を肌で感じる。
昨年(2009年)終わりから、2010年の冬は比較的天候が安定していた。
しかし夜は寒く、毛布にくるまって寝る日が多かった。
ハワイ島コナにいたころは、そんなことはあまりなかった。
さて日本に、目をむけてみよう。
前回、日本に来ていると書いた。
毎年、毎年同じ時期(2月)に、日本を訪れている。
東京は感覚的に、かなり寒かったような気がする。
それに比べて、青森県八戸と岩手盛岡、水沢、宮城鳴子に行ったが、逆に寒くなかった。
また例年より、花粉も飛んでいないと思う。
僕は例年図ったように、来たばかりの頃は39度の熱が出る。
また後半には、一昨年から患った花粉症を発症する。
しかし、この二つは出なかった。
何かが、違うのであろう。

さて今回は人の話が耳に入ってきた。
その世間話を紹介したい。

まずは中央線での、おばちゃん二人。
今年東京は、2月前半寒かった。
この日は急に、17度くらいに上がった。
そのおばちゃんは、かなり顔をしかめ「暑くていやねー」
と最悪だと云うニュアンスで云った。
先週までは、「今年は寒いわねー」と不快そうに語っていたに違いない。
ある面、幸せである。

それからもうひとつ、埼玉にあるスーパー銭湯に行った時、
80過ぎのじいさん4人がサウナに入ってきた。
まずこのご高齢のじいさんたち、(大丈夫かいな?)と素直な疑問にぶちあたった。
ところが、何ともお元気で、話している内容もかなりいけていた。
江戸弁で、ショートプログラム後の、スケートについて談義しているではないか。
「まおちゃんは体がかてーなー。」、「そうだなー」、
「キムヨナの方がやわらけーなー、これじゃー勝てねーなー」。
これを聞いて、このじいさんたちの洞察力と、感覚に「参りました」、したのであった。
結果は奇しくも、じいさんたちの予想どおりになってしまった。

ハワイは僕がいないうちに、かなり暑くなっているらしい。
もうすぐ帰りだ。


写真は、「壬生義士伝」の舞台でもある、盛岡から見た、「岩手山」。


  投稿する
HAWAII CALLS
K.C KIUCHI
 Update 2010/2/22
時代

今僕は、恒例冬の全国巡業をおこなっている。
2月9日成田に、到着した。
めちゃくちゃに、暖かい。
何と、気温19度。
「なんだハワイと、変わらないじゃーねぇーかー」と呟きつつ、東京に向かった。
知り合い10人くらいから、「ハワイの暖かい風を持ってきたのですか?」
とメールがあった。
翌日、とたんに気温4度。
「さみー!」と叫んだのは、云うをまたない。
しかし寒い時に、寒くないと困るので、良しとしよう。
それくらいの覚悟は、してきている。
そりゃー、ハワイと東京の気温差27度。
どうになることでは、あるまい。
さて最近のニュースで、若いオリンピックの代表選手の服装が悪いと叩かれている。
まーファッションと云うものは、いつの時代も移り変わるからいいような気がする。
それを批判するなら、「現おこちゃま内閣」や
「100億勝手に使っちゃった横柄都政」を批判した方が良い気がするのだが……。
何故、今日はこの話題にしたかと云うと、今京都から東京の新幹線に乗っている。
車掌は若く、顔はジャニーズ系で、心なしかパンツも太い。
昔の車掌の、ずぼんから比べれば、ルーズであることは確かである。
しかし雰囲気が、国鉄時代からみたら若々しく、丁寧で笑顔もいいのである。
うちの母親が、40年前軽井沢から東京の満員列車で、
指定に立たせてもくれない超満員の通路で、
「何故立つのもだめなのですか?」と云う問いに
「規則ですから」といやがらせとしかいいようのない対応に、
「いい加減にしろ」とクレームをつけた。
それは悪い例であるが、痛快な面もあった。
僕は子供の頃、世間がぎゃーぎゃー云う、沢田研二が嫌いであった。
当時は、絶頂であったろう。
その沢田をつかまえて、国鉄の切符切りが唐突に「芋ジュリー」と云いはなった。
怒った沢田は、駅員を殴った。
僕は実に愉快で、子供心に痛快な気分であった。
その頃の国鉄からみれば、民営化はうまくいったと思う。
一生懸命な、イケメンのてきぱきした仕事を見ていて、小さな感動を憶えた。
ちょっとだけパンツが太いが……..。
それも時代であろう。


  投稿する
小林時々日記
 Update 2009/12/17
こうやって日記に何かを書くのは良くないね。
書いた事が頭に残る。こないだも絵画館前のイチョー並木の事を書いたもんだから、
同じ所を通ると、何か気になるんだよね。
牛の胃みたいに頭が反すうするのか?
もっともイチョーの葉はぜ〜んぶ落ちて、木は裸だったけど。
イチョーも色々あって葉がまだ落ちないでいっぱい残ってるのもある。
今日朝、六本木から渋谷を通ったんだけど、
六本木通りの西麻布あたりの両側はイチョーが整然と並んでて
葉がそろって黄色だった。残ってた。
といっても、あのあたりは見通しが悪いところで、
おまけに真上を高速3号線が走ってるわけだから、
そうだな? 7、80キロで走って約5秒間だけ、そのイチョー並木が見えるんだよ。
普通の人は気が付かないだろうな。
オレがイチョーのこと書いたもんだから、イチョーがオレを追っかけてるんだね。
だから見えたんだね、ほんの一瞬だけ。

昼前にちょこっと家へ帰ってきてMTVを付けたら、
リアンナの「ロッシャン・ルーレット」が流れてて、動きが止まっちゃって、
しばらく見てた。
何しろ最近のR&B系では一番好きな曲。
でもこれがリアンナの一番ヒットしてない曲なんだね。
ヒットしなかったって知ってますます好きになっちゃって、
次にノラ・ジョーンズのPiratesが流れたんで、
ちょっと醒めて他の事をしてたら、いつのまにか
No DoubtのNo Speakに絵が変わってた。
オー渋い渋いと思いながら仕事をしてると次にGarbage、
その次にFoo Fightersのアコースティック。
仲々考えた選曲が続いた。
もうみんな80年代を卒業しようよ、
これからは90年代、2000年代だよ、いや、70年代?
とか雑念がジャマして仕事にならなくなってTVを切って。
切った後、ふと、
アレッ、コマーシャルが長い間流れなかったよな、MTVヒマなのかな?
と人のふところが気になった。

不動産の仕事をしてる昔の仲間から電話。
話の最後に、Gacktが番組のゲストに出てたけど、
あの人はどんな人なんだ? ときいてきた。
昔野球をやってた人間なので、「長島みたいな表面で中味は王」と答えた。
「何だそれっ?」て言うので、ほら王とか落合とかイチローとか、
人の見てない所で血を流して練習するけど、人の前では涼しい顔してるような、
とつけ加えた。
Gacktには昔、凄く大きなコンプレックスがあったはずだよ。
今じゃそのコンプレックスを力に変えてるから普通の人には見分けがつかないけど、
オマエだけに教えようか?
あの人は表現者だから、彼の声を目をつむってきいてみな、
一番目立つ所に彼のコンプレックスが潜んでるはずだから。
彼は「フーン」とあいづちを打ったが、わかるかなあ、わかんねえだろうなあ。
オレもちょっと出まかせを言い過ぎたと思ったけど、
自分の中でボーッと感じたことが言葉になったもんで……
次から彼の曲を聴く時は、今までとは違う聴き方をするんだろうな。


  投稿する
Wake Up Everybody!
◆某大学教授 阿南東也
 Update 2010/2/8
追悼記事です。
テディ・ペンダーグラス。1月13日逝去。享年59歳。直接の死因は結腸癌。

1年くらい前のアイザック・ヘイズの追悼記事のときに引き合いに出しましたが、
その彼も逝ってしまいました。

バリトンの魅力、しかしアイザック・ヘイズと違って甘いセクシーさを持っていた。

1970年代のフィラデルフィア・サウンドの看板でもありました。
彼自身もフィラデルフィアで生まれ育ちました。

それまではリードヴォーカルをころころ変えていた
ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツのフロントマンの座を確保すると
メキメキ頭角を現し、知名度も急上昇しました。
グループ名に冠されたリーダーと最も人気のあるリードヴォーカルが違う、
アメリカ版「内山田弘とクールファイブ」「敏いとうとハッピー&ブルー」状態
になったわけです。

MFSBのストリングスを前面に出したサウンドに
ギャンブル&ハフの名コンビによるラブソング。それに男声コーラス。

ここまでだとO’Jaysとほとんど同じですが、
ハロルド・・・が違っていたのは
やはりテディの独特の低音セクシーを前面に出せたことでした。

最初のヒットの73年の”If You Don’t Know Me By Now”。
89年にシンプリー・レッドがカバーしたことからも、
今でもフィラデルフィア・ソウルを代表するラブソングになっています。

その後の70年代中期は、”The Love I Lost”, “Bad Luck”,
”Wake Up Everybody”など、
バラードに加えて時流に乗ったディスコっぽいリズムでのヒット曲も量産します。
モータウンのテルマ・ヒューストンが77年にNo.1ヒットにして、
後にジョン・サマヴィルがブロンスキー・ビートの後に作った
コミュナーズというグループが86年にイギリスでヒットさせた
”Don’t Leave Me This Way”はハロルド・・・がオリジナルです。

78年、テディはハロルド・メルヴィンとの意見対立がありグループから脱退します。
ソロに転向後は完全にセクシーラブバラード路線中心になり、
唯一のTop40は同年の”Close the Door”ですが、
80年までにかけて”Turn Off the Lights”,
”Love T.K.O.”などR&Bチャートでのヒットを飛ばし
名曲を後世に残します。

特に”Love T.K.O.”は2000年代に入ってもカバーの定番となり、
70年代のソウルカバーの企画ものには必ず選曲されるようになっています。
ホール&オーツも Our Kind of Soulで、
モータウンに移籍して三枚連続してカバー企画アルバムを発表して
グラミーも受賞したマイケル・マクドナルドも、「美女と野獣」のレジーナ・ベルも
フィラデルフィア産のヒット曲のみをカバーした
Reachin’ Outで取り上げています。

このレジーナ・ベル、先日来日していて、ライブにも行ったのですが、
その曲も演りませんでしたし、テディの死にも一言も触れませんでした。
しんみりさせたくなかったんでしょうね。



  テディのライブでは、客席から女性のパンティが次々に投げ込まれたという。
声だけで女性を○○せてしまう男。羨ましいなあ。
彼に続いてフレディ・ジャクソンとかが同じ路線で出てきますし、
更にはブライアン・マクナイトとかに影響が感じられますし、
80年代以降、ブラコンとか、今ならアーバン・コンテンポラリーといわれる
スウィートなR&Bの基礎を築いたといえるでしょう。

そんなテディですが、日本では奇妙な売れ方をします。
日本ではそのソウルっぽい部分は全く受け入れない。
ところが、79年から80年ころ、
幼稚園児まで、テディは知らなくてもそのリズムで踊っていた。

懐かしい「ドリフのヒゲダンス」。
「8時だョ!全員集合!」の名物コーナー、シムケンとカトちゃん茶ぺが、
付け髭、シルクハットに黒スーツでゲストと一緒に曲芸をやる。
そのバックに流れていたリズムが大受けし、
インストでシングルになってオリコンでベスト10に入る
唯一の記録を作る大ヒットになりました。

これの元ネタが、実はテディの、”Love T.K.O.”も入っていた
79年のアルバムTeddyの中の “Do Me”という曲だったのです。
志村けんさんは、今はあまり聴いていないようですが
この頃は知る人ぞ知るソウルオタクで、
テディのその曲のバックリズムを使ったところ思いがけずバカ受けして、
それに便乗する形でテディのオリジナルもほんの少しですが話題になりました。
あくまでもほんの少しでした。

ちなみに、志村さん本人がいっているのを聞いたことはありませんが、
「全員集合」からのもう一曲のインストのスピンオフヒット
「ドリフの早口言葉」の元ネタは、
ウィルソン・ピケットの”Don’t Knock My Love”と
バリー・ホワイトの”Satin Soul”を組み合わせたものであるはずです。

さて、順風満帆に見えたテディですが、
82年に大きな交通事故を起こし、下半身不随になり、
その後車椅子の生活を余儀なくされます。

当然コンサートはできなくなりますが、レコードは出し続け、
アトランティックレコードに移籍しJoyなど評価の高いアルバムを出します。

事故後に出されたホィットニー・ヒューストンのデビューアルバムでも
”Hold Me”をデュエットして、
当時ストリップ劇場のバックの定番になっていたそうです。
(なぜそんなことを知っている?)

残っている彼のウエブサイトを見ると、ディスコグラフィのページでは、
ブルーノーツの時代からソロに至るまで彼のレコード、
CDのジャケットが街頭に一枚ずつ飾られていて、
それを彼のアバターがとぼとぼ歩きながら辿っています。
やっぱり、歩きたかったんでしょうね。

更に癌に侵されていることが発覚し、
2000年代はほとんど引退の状態で、今回のことを迎えました。

スィートソウルでの彼の偉大な業績を惜しみつつ、
セクシーで甘い部分ではない彼の一面を紹介して死を悼みたいと思います。
先週のベストヒットでもマイケルの特集があり、
克也さんはマイケルの「怒り」をよく強調されています。

美しく甘いソウルを作っていたフィラデルフィアの人たちも、
実は「怒って」いたんだと思います。

77年に、テディ、O’Jays、スリー・ディグリーズ
ルー・ロウルズ、ビリー・ポール、
その他フィラデルフィア・インターナショナル所属アーティストを総動員して、
当然MFSBをバックに、当時(今でも)の都市部の黒人居住区の不衛生問題改善を
訴えた”Let’s Clean Up the Ghetto”を出しています。
有名アーティストが歌い繋ぐところなど、
We Are the Worldの原型であったともいえます。

その We Are the World、ご存知の通り、四半世紀を過ぎて、
この間のハイチでの大地震の被害救済のため、
今のアーティストたちによって再録音されました。
マイケルが残した母テープもバックに使われているという。
(小生はこの手のチャリティはあまり好きではありませんが、
それはこの際置いておきましょう)。

テディのブルーノーツ時代のヒット曲、”Wake Up Everybody”、
そんな現在にも、マイケルの怒りにも通じるものがあります。
その歌詞を紹介します。改めて合掌。

Wake up everybody no more sleepin in bed
みんな、目を覚ませ、ベッドで寝ている場合じゃない

No more backward thinkin time
for thinkin ahead
過去を顧みている時じゃない、今こそ未来を見つめるんだ

The world has changed so very much
from what it used to be
世界はかつての像から大きく変化した

so there is so much hatred war an’ poverty
だからこそ憎悪と戦争と貧困が増えているんだ

Wake up all the teachers
time to teach a new way
教師たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな生き方を教える時だ

Maybe then they’ll listen to
whatcha have to say
きっとみんな、君たちの言うことに耳を貸すに違いない

Cause they’re the ones who’s coming up
and the world is in their hands
なぜなら、彼らは未来を担う世代で、世界は彼らの手にゆだねられるからだ

when you teach the children
teach em the very best you can.
子供たちを教育するときには、ベストを尽くしてやってくれよ。

Wake up all the doctors
make the ol’ people well
医師たちよ、目を覚ませ、老人たちに生きる希望を与えるんだ

They’re the ones who suffer
an’ who catch all the hell
彼らこそあらゆる病の苦しみを受けなければならない人たちだから

But they don’t have so very long
before the Judgment Day
それでも、彼らの審判の日まで、それほど長くはない

So won’tcha make them happy
before they pass away.
だから、彼らが本当に死を迎えるまで、幸福を与えてやってくれないか

Wake up all the builders
time to build a new land
建築者たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな土地を開拓するときだ

I know we can do it if we all lend a hand
われわれみんなも手を貸せば、きっとできるはずだ

The only thing we have to do is
put it in our minds
いつも心がけていること、ただそれだけでいい。

Surely things will work out
they do it every time.
いつもそうしてきたんだ、きっと巧くいくさ

The world won’t get no better
if we just let it be
ただ放っておいたままなら、世界はよくならない

The world won’t get no better
we gotta change it yeah, just you and me.
世界はよくならないから、我々が変えていかなければならないんだ、君と僕とで


  投稿する
HAWAII CALLS
K.C KIUCHI
 Update 2010/1/30


新年を迎えて、うかれていたら、いつの間にか1月も終わりの様相である。
12ヶ月分の1ヶ月が、終わってしまう。
師走と云われるが、十分に1月も師走である。
今年のハワイは、雨期に突入しても、比較的天候が安定しており、
観光客の人々には、嬉しいものとなっている。
ただハワイ島からの火山の煙が、時たま視界を悪くする。
さてある方から、「ハワイの音を録音してよ」と云われた。
先週試しに、「音」を探しに出かけてみた。
これがまた写真と違い、何を求めて何を拾うか、なかなかにむずかしい。
その日は、ビーチに行ってみた。
アラモアナビーチから、ワイキキのはずれまで。
そこで初めて気がついたのは、鳥の鳴き声、シャワー、波、様々な「音」があった。
僕はただ黙って、三脚をたて、5分ごとにビーチを移動していった。
イリカイ近くのビーチでは、ローカルがウクレレなどを奏で、のんびりしている。
ヒルトンのビーチ近辺では、レストランのハワイアンミュージック。
ハレクラニの近辺では、子供が転んで頭を怪我し、泣いている声。
日々の生活で、テレビや写真など、映像もので成り立っていると云うことを、
改めて認識した。
意外に「音」を追いかけると云う観点は、人生の中で全くなかった。
ハワイ島の、国立公園の中に、サーストンラヴァチューブと云う、名所がある。
ここの鳥のさえずりは、テープレコーダーから流れていると思うくらいに、
素晴らしい。
そんなことを、思い出した。
帰ってきてその「音」を聴いてみると、
何もしゃべらないやり取りのないものは何か物足りなく、風の音、波の音は静かだ。
ただトータルで分析をしてみると、間違いなくハワイの「音」であり、楽園の「音」である。
そう考えると、ハワイは365日海に入れ、風がそよそよ吹き、
のどかなハワイアンが流れるこの場所は、やはり特別なのかもしれないと改めて感じた。
もう少し「音」を録ると云う、技術を身につけないと面白くない。
頑張ってみるとしよう。


  投稿する
小林時々日記
 Update 2009/12/10
かぁさ〜ん 家へ帰りま〜す
めったにラジオでかからないオジー・オズボーンが聴こえてる。
Mama I’m coming home.
久しぶりにラジオで瞬間的に感激した。
気持ちが震えたね。
オレは「この瞬間」だけのためにラジオをやっている。

なんてカッコつけすぎ?

2日前 啓三郎さんが同じ事を云ってた。
オレ、マウイ島で運転してて雨が降り出したんですよ、
その瞬間聴いてたFMとバッチリ何かが合ったんすよ。
あれってラジオでしか体験できないですよね、克也さん。

大野勢太郎と啓三郎というNACK5の殆どの数字(聴取率)をたたき出してる
2人のパーソナリティが金曜の夜やってる「男ラジオ」
ゲストに呼ばれた。放送は正月。
録音なので気が楽 etc.
3人がヘッドフォンをかぶり、スイッチが同じなので、
オレはボリュームをMaxまで上げた。
一応2人の顔色を見た。イヤがるかな?
勢太郎さんが云った、克也さんもっとボリューム上げていいよ。
啓三郎さんも云った、オレももっと大きい方がいいっすよ。
オレは云った、嬉しいな、2人ともオレと同じツンボなんだあ。

こうして、3人の間の緊張は解け、熱い雰囲気の中、トークは進行した。が、
正直いってオレは饒舌すぎた。
自己嫌悪と反省、ダメだなオレ!
そんな中、ビンビン響く声のガンコ親父然とした勢太郎さんが
ペースを崩すことなく事を進めた。
やっぱり勢太郎はエライ。

何をかくそう、この3人の中ではオレが一番年上。
でも長くやってるからエライって事ないですよね?
ベテランの勢太郎さんに一度きいて見たかった。
長くやればやるほど油断するだろうし、ボケるし…


忘年会のため、四谷三丁目の「ドンキー」を予約しようとしたら、
店をたたんでいた事を知った。
業界では有名な店で、松井やジャッキー・チェンまできて大繁盛だったのに。
良いネタを仕入れるのがだんだん難しくなってきて、
店舗の契約等モロモロの条件も重なって、今まで通りの品質を保てるか?
色々考えた末、店をしめたんだ、と。
もう田舎で畑をやってるんだ、と。
いさぎ良さに舌をまいたね。

客だった我々の頭の中では、かくして、
あの絶品だった「牛タン」やママの辛口のトークがひびき渡り続ける。

あと、実はもう一軒、店をしめてる所がある。
廃業ではなく改装中。
改装中といえば店の拡張かと思うけど、店を半分に縮めている。
予約しないと入れないソバ屋なんだけど、逆に店を小さくしようとしてる。
使用人を使わず、夫婦だけで、知ってる人にだけ食べてもらう店にするんだ、と。
客を選ぶソバ屋?

この話は六本木のふぐ屋も知っていた。
高いから一年に一度だけ行く店。
前、行った時はミシュランの星を1つもらってた。
今週行ったら星が2つになっていた。
ここも家族だけでやってる。
オレと同い年の主人は云う。
ミシュランなんて気にしてないですよ。
向うが勝手に星付けてるだけで、うちは昔から何一つ変ってない。
私はお客の方しか向いてないですよ。
この狭い店でイッパイイッパイなんだから。
これ以上広い店だと、私はもう責任持てなくなっちゃうなあ、
やっぱりこの狭さが「身の程」ですかねぇ。

という訳で、エライ人程、自分を知ってる?


  投稿する
Try to Remember
/ The Way We Were
◆某大学教授 阿南東也
 Update 2010/1/18
あけましておめでとうございます。

まだ正月ボケが続いている方もいらっしゃるでしょう。少なくとも小生はそうです。

ですので、少し正月らしいトピックで書きます。
普段のような、洋楽に関するトリビアな内容は僅かになってしまうかもしれません。
しかしより大きな意味での音楽の歴史の話になる可能性あり。

去年、ファンフラに二度も出演させていただいた愚息、
“Ricky”紀輝(のりき)クン9歳。

小生、縁あって仕事で名古屋にいますが、両親は関東にいます。

小生と愚息も、冬休みの後半、
ラッシュにできるだけ引っかからないように帰省しました。
イベント参加や、お年玉ねだりが主目的でしたが。

リッキー君は、もう一つ重大なミッションを帯びて上京しました。
ミッションとは大袈裟で、洗練された言葉で言い換えるといわゆる「宿題」ですな。

それは、オジイチャンオバアチャンのお家に行くことがあったら、
「昭和」の時代を感じられるものを何か見せてもらって、
それについての話を聴いて、教室で発表してください、というものでした。

昭和といわれましても63年もの長きにわたるわけでして、
かく言う小生自身も人生の半分は昭和を生きていた訳でして、
いろいろないわけではないですが。
オジイチャンオバアチャンから情報をもらいなさいということは、
できたら昭和の前半の時代を彷彿とするものを見せてもらえ、
という含みがあるのでしょう。

小生のお袋は克也さんとほぼ同年代、親父はチョイ上です。

ちなみにリッキー君は炬燵を経験したことがありません。
小生が子供の頃に入っていたものも、
家を改築したときに処分してしまったとのこと。残念。

話を聞いて親父やお袋が出してきてくれたもの、
すり鉢、昭和30年代の羽子板、いろいろありましたが、
やっぱり一番古い、SPレコード盤がいいだろう、ということになりました。
マイケル・ジャクソンの一件以来洋楽にも興味を持ち始めたリッキー君にも
インパクト大きかったようです。

SPレコードとは何か。オジイチャンのお話もさることながら、
このサイトにおいてセミプロ音楽ライターを始めて6年目、
その意地にかけて愚息のプレゼンのカンペを作ってやることにしました。

しかし、工学技術や歴史を小学校低学年に説明するのは逆に難しいですね。
小生が本当はこう言いたいんだけれど
高度すぎて(?)いえない部分は(   )の吹き出しでコメントします。

「みなさんは音楽を聴くとき、CDを使っていますよね」

 (CDの売上げは10年前と比較すると半減しており、
 ネット配信、USBスティックオンリーとか、
 今年はメディアの多様化が更に加速しそうですけどね)

「でも、僕たちのお父さんや、オジイチャンの昭和の時代には、
レコードというものがあったそうです。

それも、オジイチャンの時代の昭和の前半は、
レコードの一番古い形のSPレコードというものがあったそうです。

今のCDは、音楽をデジタル化した信号に変換し、
それに光線を当てて読み取って音に直して聴くのですが。。。」

 (これ自体十分難しいですね。どうしたらいいでしょう。
 やっと10進法に慣れたばかりの子供たちなのに、
 2進法とか、0と1の二つの数字の組み合わせで
 全ての音が無限に信号化されてるとか。。。ますます止めたほうがいい)

「レコードは、円盤に針を落として、円盤の外側から内側に向けて掘られた
一本の細い溝に記録された摩擦音を針が辿って震えて、
その音を大きくして聴いていたのだそうです。」

 (CDやDVDの場合、光線は内側から外側に動いています。
 これは皆さん、知ってましたよね?)

「レコードの一番もとの形を発明したのは、
みんなも知ってる発明王のエジソンで、1877年のことだそうです。」

 (この時エジソンが作ったのは円盤ではなく
 筒が回転して針が下から上に降りてくるもので、
 声を辛うじて聞き取れる程度のものだったそうです。
 偶然にも、エジソンと電話の発明の特許を争った
 アレグザンダー・グラハム・ベルもほぼ同時期に同じものを作っていたのですが、
 二人ともそれ以上の改良を考えなかったそうです。
 それが発明家の発明家たる所以なのかもしれませんね。
 プロトタイプは作るけどあとは野となれ山となれですぐ別のものに興味を移す。。。)

「これが、オジイチャンが残していてくれていたSPレコードです。」


「『鳩ポッポ』が『ポッポ鳩』って書いてあったりします。
オジイチャンの若い頃は、日本語の横書きは右から左に書いていたそうです。」

「SPレコードは、一分間に78回転して、
それで3分間くらいもって一曲だったそうです。
溝を辿って音を拾う針は鉄でできていて、
一回使ったらそれでもう使えなくなり、一回ごとに交換していたそうです。」

「昭和が始まった頃(1920年代ですな)、
アメリカという国ではジャズという音楽が大流行して
(子供たちはジャズといわれてもピンと来ないし、
アメリカといわれても日本より大きな国があるんだなあ、
くらいの認識しかまだないでしょう)レコードが広まったそうです。」

「SPレコードは片面しか録音できず、
割れやすい硬いプラスチックで作られていたので、
1940年代にアメリカと日本が戦争をしていた頃
(今ではこの歴史事実すら知らないで大学に入学してくるやつらが
ゴマンといますから、早くから教えておいたほうがいいと思います)、
素材は弾力性があって割れにくい塩化ビニールに変わり
(ちょっと難しいかなあ)、両方の面に録音できるようになり、
直径は30センチになって一分間に33回転になり、
片面に40分も録音できた、何曲も連続して聴けるようになりました。
これをLPレコードといいました。
一曲だけを聴くためのものは直径17センチと小さくなり、
一分間45回転になりました。これをEPレコードといって、
中心の穴が大きかったのでドーナツ盤というあだ名がつきました。
音を拾う針も宝石(こういう言い方のほうがわかるでしょう)が使われるようになり、
一番硬いダイアモンドを使って作った針なら延べ
(この概念もまだ習っていないでしょうが)
で300時間くらい聴くことができました。」
(これらの規格を作って普及させたのはアメリカのコロンビアとRCAです)

「ビートルズや、マイケル・ジャクソンも
最初はそうやってレコードを作って売っていました。」
(小学生もこの二つなら全員辛うじて知っているようです)

「これが、1981年に最初に述べたCDが売られるようになり、今にいたります」

(世界で最初にCDを商品化したのは新しいもの好きの大滝詠一師匠の
A Long Vacationでした。来年は20周年を迎えるわけですな)


以上、「   」の部分をリッキー君が写真を見せながら巧く発表してくれればいいな、
と思っているのですが(親バカ丸出し)。

以下は小生の個人的な回想。

小生は、物は壊れるまで使い切らなければ気がすまないセコい性格もさることながら、
LPレコードを最盛期で1000枚近く持っていたこともあり、
しかもマイナーで希少なものが中心でしたから、
それらが全てCD化されるとは到底考えられず、
最後までCDに抵抗し、アナログレコードにしがみ付いていた口でした。
最初のCDを買ったのは1989年だったと記憶しています。
それまでアナログではどうしても見つからなかった曲がCDになっていたからでした。
その曲についてはいずれ稿を改めて。

それ以降は雪崩の如く、ン千枚のCDを集めてしまいましたが、
今はCDを買う以外に音楽を入手して貯めておく手段は多様化し、
CDを何枚持っているかなど何の自慢にもならない時代になってしまいました。
冒頭に書いたCD売上げの半減減少も無縁ではないでしょう。

技術の発展、普及にかかる時間はどんどん圧縮される傾向にあります。
小生はDVDもン千枚ためてしまって、
次世代DVDもクソ食らえと思っていたのですが、
ひょっとしたら本年の暮れまでには、
時流に負けてブルーレイシステムを入手しているかもしれない、
そんな予感さえする2010年正月でした。

Try to Remember / The Way We Were
グラディス・ナイト&ピップスが、1975年、
その前年に大ヒットしたバーブラ・ストライザンドの『追憶』のテーマに
せりふを加えてかばさせたヒット。
世の中の動きや技術発展が速くなっていても、
その基礎は先人の発想と努力の賜物であって、
それを有り難がって使っていた時代があったことを忘れてはいけない。
小学校からの勉強も、その認識が根底になければ。
知ることは喜びで、無駄なものは何もないのです。

♪誰だって、わかってる、エジソンは、偉い人、そんなの常識〜、タッタタラリラ〜♪


  投稿する
HAWAII CALLS
K.C KIUCHI
 Update 2010/1/15


大変遅くなりましたが、今年も宜しくお願い致します。
さて昨年から今年の初めにかけての、
ハワイまたアメリカ本土のトピックスを紹介しよう。
ハワイは、クリスマスのシーズンオバマ大統領が、
バケーションでホノルルにやってきて、警戒がかなり厳重になっていた。
本土に目を向けると、寒波が来て、各地で記録更新のオンパレード。
ちなみにミネソタでは、マイナス37度を記録した。
ミネソタの消防士は、腕と指が思うように動かず、
着替えるのに30分かかったとのこと。
また暖かいはずの、マイアミ。
通常は最低気温が16度のところ1度となり、バレンシアオレンジが凍る被害が出た。
またイチゴも凍り、出荷が危ぶまれる。 
ハワイは正月兎に角、人、人、人。
来客があったので、元日レストランを探し、彷徨っていた。
アラモアナSCのカリフォルニアピザキッチンは、17時45分に行き、
並んでいるのでどれくらいの待ち時間か聞いたところ、1時間45分待ちとのこと。
いきなりぶっとんだ。
仕方なく東仙閣と云う、「じゃーじゃー麺」が旨い中華に行った。
このレストランは、中国と北朝鮮の国境あたりの料理で、
中華なのに付け合わせがキムチなのだ。
実にユニーク。

1月も15日になり、早くも半分が過ぎてしまった。
16日くらいから大波が、オアフのノースショアーに押し寄せた。
ローカルニュースでは、モンスターの波がきていると報道していた。
何とメートルに換算すると、約12メートルのウルトラサイズ。
アメリカ本土から来た観光客は、見たこともない波に驚きを隠さない。
なにせハワイに住んでいても、なかなか見ることはできない。
「ばしゃー」と砕ける音は、自然の脅威を感じた。

天気はと云うと、おおむね良好であるが、たまにハワイ島キラウエア火山の煙が、
500キロ離れたホノルルまで風に乗ってやってくる。
視界がぼやけて、何かすきっとしない日がたまにある。
僕のハワイアンの友人などは、煙で吐き気がすると云っていた。
僕はそこまでセンシティブではないので、何ともない。
何も考えていない男は、強いのである。

今年も「晴れたらいいねぇー」。


  投稿する
HAWAII CALLS
K.C KIUCHI
 Update 2009/12/28
今年も………

今年も終焉を、迎えようとしている。
自分が生まれた1964年には、2000年が来るなんて夢であった。
2000年が来る前に、僕らの世代は1999年7の月と云う
「大フレーズ」があったからだ。
ここであえて、説明するにはおよばないかも知れぬが、
かのノストラダムスのそれである。
当時小学生だった僕は、かなりこのフレーズに洗脳されていた。
それが振り返ってみれば、その期限を10年も軽くオーバーし、
もう少しで2010年がやってくる。
さてこの原稿を書いている今日12月26日は、
アメリカで1番ショッピングが盛んな日である。
そう、アフタークリスマスセールである。
どんな感じかと、アラモアナショッピングセンターに行ってみた。
まぁー人、人、人。
右へ左へ、上へ下へ。
映画を見ているような、錯覚に陥った。
凄い、勢いである。
しかし今年のアメリカ人は、どこか違っていた。
1番の違いは、クレジットカード使用を控えていたことだ。
これは延滞すると、実に25%以上も延滞金が取られる。
一昔前は「延滞金なぞくそくらえー」の勢いだったアメリカ人である。
これはもちろん、使える現金だけ使えば、計算ができると云うもの。
端的に云えば、本来の姿になってきたと云うところか…….。
面白い現象は、アフタークリスマス26日の物が、1番安い為、
翌年のクリスマスプレゼントにすると云う人達が、けっこう多いのである。
こうしておけば、余裕があるうちに買ったものなので、
株のように消滅することもない。
いいアイデアかもしれぬ。

今年も思い返せば、存外良い年であった。
無病息災、健やかに過ごせた。
これは一重に、皆様のお陰である。
毎年毎年、年の初めと、年の終わりに、ご挨拶できるのも健康であるがゆえである。
そろそろ色々なところに、がたがきているが、
年相応、分相応に、2010年もやっていきたいと考えている。
では皆様、くれぐれも良いお年を!
来年また、お目にかかりましょう!


  投稿する
HAWAII CALLS
K.C KIUCHI
 Update 2009/12/21
飾らないところが……

80年代から90年代の初めに、ちょこちょこ日本からハワイに来ている頃は、
ハワイの飾らないところが好きであった。
ビーサンのままレストランに入るとか、
雨が降っていてもレンタカーで島1周に出るとか。
気ままにいけた。
いつの頃か、ワイキキは小綺麗になり、レストランも洒落た。
昔は道に迷っても、日本人ではなく日系人のおばちゃんが
「何か困っておるかいのぉー」と広島弁か山口弁で、親しげに話しかけてくれた。
それが、「何かお探しですかー」とか日本語を聞くと、
タイムシェアーの勧誘であったり、オプショナルツアーの勧誘。
時代は変化した。
酷いのは、ちんぴらまがいのオウムを使っての恫喝。
俗っぽくなっているのは、云うまでもない。
しかしたまにアラモアナビーチから、ワイキキのはずれ、
ニューオータニがあるカイマナビーチまでのんびり歩くと、
まだまだ昔の名残と云うか心地良い雰囲気が多々ある。
住んでいるといかないが、たまにはマイタイバーでマイタイを飲むなんて云うのも
いいであろうし、テイクアウトのコーヒーを買ってビーチで飲むもよし。
俗っぽくなったのは、1980年代の終わり、日本のバブルは少なからず影響している。
その当時は、ディスコが、いくつかあった。
ピンクキャデラックや、シェラトンのインフィニティ、
アラモアナホテルのルーモアーズ、ハイアットのスパッツなどなど。
スパッツは、かなりの待ちがでるほどであった。
曲は日比谷のレディオシティなどとほぼ一緒で、
今考えるとよくこんな曲で踊れたものだと感心する。
ちなみに、ホール&オーツなどで踊っていた。

話は変わるが、今年のホノルルマラソンは晴天であった。
もちろん僕は、今回も参加していない。
2年前の大雨で、かなり懲りた。
3年連続で、雨が降らなかったのは、本当に良かったと思う。
今年の12月は特に天気が良く、ワイキキではほとんど雨を見ない。
あとは通常旅費が高い時期に雨が多いので、年末年始の好天を祈ろう。
写真はたった二人で、ヒルトン近くのビーチで何気なく結婚していた。
飾らないハワイは、ほのぼのしていた。


  投稿する
小林時々日記
 Update 2009/12/3
内藤、亀田戦、何かスッキリしなかった。
始めっから内藤が「TBS」という「アウェイ」でやらされてるみたいだった。
アナウンサーの亀田のパンチへの騒ぎ方も怪しかったし、
スコアの発表法も異例だったし、
「内藤のダメージ顔もバッティング等ではなく、亀田のパンチによるものです」
と試合途中で発表したり、内藤勝利への逃げ道をふさいでいた感があった。
素人の目から見ると、あれは引き分けでチャンピオンの防衛だと思ったね。

昔、「海津」という名字のウェルター級だかの日本か東洋のチャンピオンがいて、
何回も王座を防衛してたが、よく打たれるみたいで、
勝っても、いつもみっともない顔になっていた。
内藤もダメージを喰らう入り方で相当打たれたけど、
その分以上に相手を打ってると思ったけどな。

亀田のファイトをアフリカでフォアマンを倒したモハメッド・アリに例えてた人が
いたけど、アリの場合、強力なフォアマンにわざと打たせてるからね。
うまく逃げながら打たせて、顔がブクブクにハレ上って、
フォアマンが打ち疲れた時を狙って、倒してKOを取った。
KOだよ、ノックアウト。
亀田とアリは較べてはいけないのは云うもでもアントニオ猪木。

この試合、視聴率は43%を超えた。
ま、勝ったのは亀田をスターにしようとしてるTBSということかな。

亀田がロッキーまがいのサバイバーの曲でさっそうと入場したのに、
内藤は可愛くCCBの「ロマンチックに何とか」をバックに……
アレがいけなかったのか?

翌日、やらかしました。
もう12月。外に出している観葉植物を家に入れてあげなくてはなりません。
ヨイショっと持ち上げたとたん、固めの葉の先が右目にうまくチクッと入りました。
目をやられると人間あまり動けなくなるもんで、
とうとう夜中起きて鏡を見ると、これが、なんと、腫れ上がって内藤状態。

今もちょっと右目だけ開けて見ると、景色がかすんでおります。


  投稿する
Get Ready!
◆某大学教授 阿南東也
 Update 2009/12/14
あんまり間をおかずに行きましょう。

またまたライブリポートで、今回も懐かしや、テンプテーションズ。

正確に言うと、テンプテーションズ・レビュー。
以前にも、ジェファーソン・スターシップとか、アース・ウィンド&ファイアとか、
エイジアとか、長くやってると人間関係がいろいろ複雑になり、
バンドに出たり入ったりで、もともとは同じバンドだったものが枝分かれして
南北朝時代みたいに本流と傍流が並存しているグループについて
取り上げたことがありました。

実はこのテンプテーションズもそうなっているんですね。

本家テンプテーションズと、今回観たテンプテーションズ・レビューが並存している。

1960年代、フォートップス、スピナーズらと並んで
モータウンの男性コーラスグループの柱と言われ、その中でも最もヒット曲が多く、
そのフォートップスやスピナーズが70年代になってモータウンを見捨てて
移籍して行ってしまった中、テンプスのみモータウンへの操を守り続けた。

しかしその分、メンバー交代も多かった。
曲のキーによってリードヴォーカルも代えることができ、
それでエゴのぶつかり合いもかなりあったという。

そんな中で、メンバーはどんどんソロになって、
それなりにヒット曲を出していくようになる。

でも、オリジナルメンバーで主要だった人たちは今、殆ど鬼籍に入ってしまった。
 エディ・ケンドリックス。
 デヴィッド・ラフィン。
 ポール・ウィリアムス。
 メルヴィン・フランクリン。

1961年の結成以来、現在まで
テンプテーションズの看板を守り続けているのはオーティス・ウィリアムスのみ。

ところがこのオーティス、そんなテンプスの中で唯一、
リードヴォーカルが取れないメンバーだった。

それで今の本家テンプテーションズは、
オーティス以外90年代以降に入った人たちばかりでやっている。

これに対して、テンプテーションズの名前を法的に使用できないから
テンプテーションズ・レビューとしてやっている方を率いているのは
デニス・エドワーズ。
“Ball of Confusion”
“Papa Was a Rolling Stone”などの大ヒットで
リードヴォーカルをとり、
70年代になってファンキーになった時期のテンプスを支えた人。

それに加えて、オリジナルメンバーのポールの遺児、
ポール・ウィリアムス、ジュニアが入っていました。
その意味で音楽的にもメンバーの血の流れの上でも、
こっちのレビューのほうがよほど正統性を主張できるのではないか。

それはさておき、70年代を中心としつつも60年代から80年代まで
30年間のテンプスの歴史を一瞥できるステージを見せてくれました。



82年の、今は亡きリック・ジェームスの呼びかけで再結成し、
彼のプロデュースを仰いだファンキーな“Standing…”から始まりました。

そして60年代に戻ったメドレー、“Get Ready”から。
85年にホール&オーツがアポロ・シアターでのライブで
エディ・ケンドリックスとデヴィッド・ラフィンをゲストに呼んで
この曲をカバーしてヒットして、
それと同じことを同年の、世界数箇所で同時に行われ世界中に中継された
USA for Africaをうけての「ライブ・エイド」で同じことをやったの、
憶えている人、どれくらいいるでしょうか。
このメドレーの中で、“Papa Was a Rolling Stone”が
早くも出てきてしまいました。代表曲をもう出しちゃっていいのかな。って感じ。

その次に意外でしたが“Rainy Night in Georgia”は
トニー・ジョー・ホワイト作、ブルック・ベントンという、
50年代から活躍していたサザン・ソウルの人が70年に大ヒットさせた渋い渋い曲。
以前はクラシックしか聴いていなかった若山玄蔵さんが
いわゆる洋楽にハマったのはこの曲からだ、と言っていました。
テンプスとしてレコーディングしたことはないようですが、
ステージがアダルトな雰囲気になっていくのにうまい選曲でした。

次の“Cloud 9”メドレーの中に、
バラードのナンバー1ヒット“Just My Imagination”も出てきました。

70年代のR&Bそのもので、みんな一曲の時間が半端じゃなく長い。
その間にメンバーも客席に降りてきて、
聴衆にマイクを向けてハミングをリピートさせたりしました。
かく言う小生も、最前列正面に坐っていたので、マイクを向けられました。
一番音を外さずに,他のお客さんから拍手をもらったのは小生じゃなかったかな。
カラオケでもオンチじゃないほうですから。
“The Way You Do…”も60年代モータウン時代の代表曲、
リタ・クーリッジもカバーし、上に書いたホール&オーツとのジョイントでも
メドレーで使われた曲。

やはり67年の“Wish It Would Rain”に続いて、
最後に全員が立たされて踊らされたのは、
85年の“Treat Her Like a Lady”
アース・ウィンド&ファイアのアル・マッケィがプロデュースした
80年代のテンプスのファンキーな最高傑作。
ところがこの85年当時、デニスはテンプスから抜けていたんです。
ソロとしてサイダ・ギャレットとのデュエットで
“Don’t Look Any Further”という曲をヒットさせていました。
そうなんです。後にマイケル・ジャクソンと
“I Just Can’t Stop Lovin’ You”を
デュエットでナンバー1にして、90年代にはブランニューへヴィーズに加入する、
あの女性です。彼女を世に送り出したのはデニスだったんですね。

その“Treat Her…”の間奏がずっと続いて一旦引っ込み、また出てきた。
上に挙げた、既に亡くなってしまったテンプスのメンバーの名前を読み上げ、
一人ずつ合掌する。そして最後はやっぱり“My Girl”。

終了後のサイン会も、小生が歌ったのを憶えていて褒めてくれました。
いい人たちだった。

Get Ready.
気が付いたら、2000年代の最初の10年も終わろうとしています。
次の10年代への準備はできていますか?

もし、年内に次の原稿ができなかったら・・・ハッピー・クリスマス!




  投稿する
小林時々日記
 Update 2009/11/26
絵画館前が凄い。
いきなり渋滞に巻き込まれてしまった。
ちょっと遠回りして黄金のイチョー並木を見て行こうと色気を出したのが大失敗。
車が動かない。
いつからこんなに人が集まるようになった?
不景気だから?
バスが何台もとまってるし、数百人もの人がいる。
ここはやっぱり「素通り」でイチョーを見て
心を残すぐらいが一番いいと思っていたのにつかまってしまった。
景色より人を見ることになってしまった。
若いもんもきてるけど、年寄りが多い。
時速10キロ以内でトロトロ進むオレの車の前を
年寄りは数人がかりで強引に通り過ぎる。
と思ったら、逆方向から道のまん中に近づくじいさんが一人。
カメラを覗きながら、こっちへ近づいてくる。

じじい車を全然見てない!
アブナイヨー! コラーッ!

おまえら、1月か2月になってここへ来〜い。
イチョーの葉が一枚も残ってないぞ、裸の幹と枝が寒空につきささってなあ、
そりゃ、きれいだぞ。
人も歩いてないし、淋しくなるぞ。
でもな、目ーむいてじっと見てると、色んな季節も見えてくるぞー。
でもホントに寒いぞー!

なんて思ってるじじいが車の中にいた。


夜、10時頃?
NHKで立花隆の癌の特別番組を途中から最後まで見てしまった。
初期の膀胱癌を克服しつつある立花さんが、
世界の最先端の癌研究と薬の開発の現実を自ら取材した、彼らしく切り込んだ番組。

著名な研究者達が登場し、伝えた結論は、まだ癌の実体が完全に見えていない事、
そして決定的な薬が開発されていない事だった。
みんな、やっぱり、と思ったに違いない。

立花さんらしかったのは、
最後の「章」をつけていたこと。
ここでは日本の医者や患者が出てきた。
死生観の章でもあり、立花さんの個人宣言の章でもあった。
この章をつけなければ、この番組は終われない。
いや、この章のために世界からの色んな報告を集めたんだな、きっと。

「人間みんな立派に死んでいきます」
という医者の言葉が頭の中でディレイ・エコーして…

このエンディングを持て余すじじいが一人いた。


  投稿する
HAWAII CALLS
K.C KIUCHI
 Update 2009/12/7
アロハシャツから始まる人間模様

この原稿を書かせていただいて、今回で100目となる。
僕は続けることは、大事な事と捉えているので、実に嬉しい。
たった1枚のアロハシャツから始まる、人間関係を時々紹介したいと思う。
ある面「克也」さんとの出会いも、ハワイ&アロハシャツであった。
今回は100回こんな出会いが少し前にあった。
それは1本のメールから始まった。
書き出しはこうだ。
「突然のメールで、失礼致します。僕は岩手のお店で、
KCさんの作るアロハに惚れました。機会があれば、ぜひお会いしたい」
簡単に云うと、こんな話だった。
またメールをもらったのが、8月終わりで
「10月の沖縄のイベントで、アロハシャツを着たいので売って下さい」
とも綴られていた。
彼の名は「MONGOL800の上江洌 清作氏(ウエズ キヨサク)」であった。
ご存知の方も多いと思うが、テレビになかなか出ない男。
紅白はもとより、基本は出ない。
今まで出たのは「僕らの音楽」と「笑っていいとも」だけ。
おはずかしい話、僕は「MONGOL800」を知らなかった。
知らずにメールをするものなんなので、ウィキで調べた。
そうすると、かなり骨のある、
好きなことをやっているバンドだと云うことが、わかった。
僕は彼に「11月東京に行くので、機会があれば会いましょう!」と書いた。
すぐ返答がきて、「会えるのも縁、会えないのも縁ですから」と。
「僕もそう云うものの、考え方が大好きで、うまくいけばいいですね!」と返した。
あとから知ったのだが、12月7日は日本武道館でコンサートがあるらしく、
ちょくちょく東京には来ているらしい。
11月中旬うまくスケジュールが合い、彼と新宿で会うことになった。
会ったその時から、初めてあった気がしなく、
話ははずみ、コーヒーからいきなり韓国飯屋に直行した。
東京にもあまり「コプチャンチョンゴル」の店はなく、
以前から行きたかった歌舞伎町の店になだれ込んだ。
これがまた安くて旨く、話も盛り上がった。
上江洌氏は全てがでかい男で、なかなかの男前。
話もまどろっこしくなく、まっすぐでピュアーな29歳であった。
沖縄のイベントも3回ステージに出て、
僕のアロハを3枚着替えて、たってくれたそうだ。
嬉しい、かぎりである。
そのイベントは、24時間でおおとりはかの「小田和正」氏と云うことで、
超盛り上がったとのこと。
脂がのった、豚の焼き肉を食いながら彼は云った。
「創作意欲を高める為に12月はハワイに行きます。またぜひお付き合い下さい!」と。
僕は云った。「もちろん!」
アロハシャツから始まる素敵な関係。
やっぱりアロハシャツはアローハ!
みなさんも、こんな出会いがありますように!!!


  投稿する